沿革詳細

1994/11 アトリエヒロコ オープン

1994年4月に表参道のマンションの一室を仕事場として借りました。これから何をしようかと考えたとき、私の子供の頃遊んだお人形を思い出しました。私の子供の頃は抱いたり、おぶったり出来る文化人形で遊んでいました。70年代頃からリカちゃん人形が主流だったので、昔懐かしいお人形を作ってみるのはどうだろうと思いました。材質は布や綿で、顔は手書きにして着せ替えが出来るお人形にしようとイメージが膨らみました。

着せ替えは洋服がいいのか着物がいいのか考えたとき、私は下町育ちで子供の頃から日本舞踊を習っていて着物が身近だったので、着物を着せ替えられるお人形に決めました。お人形の髪は着物に相応しい小さい子の日本髪のように毛糸で作ってみることにしました。顔は何度描いてみても同じ顔になりました。着物の生地は表参道に古着屋さんがあって当時はまだ今ほど高価ではなかったので仕入れに苦労はあまりありませんでした。

試行錯誤の末、イメージに近いお人形が出来上がったのはその年の夏頃でした。その頃友達から誘いがあって、野口英世記念館でのイベントのブースを借りて、形になっていたお人形を出品することになりました。この年の秋に販売予定ですと言ってお人形を見てもらったのですが、大変不評で、ただ一人私のお人形を抱いてくれて「これからの子供一人、ひとりがこういうお人形が抱けるといいわね。」と言ってくださった言葉が唯一支えになりました。その後何回か改良を重ね、お人形を作り直していました。その年の秋にたまたまNHKが作る番組の出演依頼がありました。番組の内容は1994年が国際家族年であり、都会でひとり暮らしをしている人の生活を追っての集大成の番組を作るというのが趣旨でした。

私は表参道のマンションを仕事場として使っていたし夫も子供もいるので対象外とのことで断ったのですが、電話をくれたNHKの男性がこれからの新しい形かも知れないと興味を持ってくれて取材を受けることになりました。1994年12月にNHKの「東京ひとり暮らしの風景」が放映され私もその番組に出演しました。 お人形を作って売り出すアトリエヒロコのオープンが番組出演当日となって、カメラがセットされた所にお客様が見えるような設定でした。ひとり暮らしということで、アトリエヒロコの仕事内容は極力避けて放映されましたが、視聴者にとってNHKの影響は多大で数名の問い合わせがありアトリエヒロコの抱き人形を買っていただきました。そのお客様はアトリエヒロコのマンションににお出でいただいたりして当時は親しく交流がありました。その中の一人のお客様は明石の方で、買っていただいた後すぐに阪神、淡路大震災に被災されましたが、「お人形は無事です」と電話をいただきとても感激しました。

1995/8 アトリエヒロコ 南青山に移転

表参道のマンションは家賃が高く南青山に移転しました。
青山通りから一本中に入った路地にある古いマンションで隠れ家の様なおもむきがそこを第二の拠点として出発することにしました。

1995/10

友人の紹介で東急東横店が主催する手作り店の面接を受けました。アトリエヒロコの抱き人形を販売商品として面接を受けましたがあまり好評ではなかったのですが面接は通りました。

その日はお人形の着物の残布でリメイクしたベストをたまたま着ていました。これが面接官の目にとまり、お人形を売るよりそのベストの方が売れると言われ、意図的に着ていたわけではなかったのでびっくりしましたが結果、手作り店の出品商品が抱き人形とベストの二点に決まりました。その時点でウエァの仕事をする気持ちは全くなかったのですが、初めて公にお人形を見てもらえる機会を逃す訳にはいかないと考えてその後出展までに急遽古着屋さんで帯地を仕入れて、出来るだけのベストを作りました。

面接官が言ったとおりベストは大好評ですぐに売り切れましたが、残念なことにお人形は不評でした。

1995/10 アトリエヒロコのお人形の売り方

売り方としてはお人形に着物一式を着せつけて展示したのですが、思いがけず私が描いたお人形の顔がとても個性的に見られたようで、表現としては(怖い)というお客様が多かったです。出展後、抱き人形に対していろいろと意見をいただきました。顔だけすげ替えた方が良いという意見、プロに顔を書かせたらどうかとも言われました。要するにもっと可愛い顔にしたほうが良いということなのでしたが、私は奇をてらって顔を書いた訳ではなく、また人の真似をして可愛い顔にするつもりもなく、どこまでも自分のイメージで作っただ抱き人形であることを通しました。

ただ着せ替え人形であるのに一式着せつけて飾り人形のように売ったことは着せ替えの意味がなかったと気がつき、お人形(本体)、裾よけ、長襦袢、着物、帯、帯あげ、帯締めを全てバラで売ることにしました。この売り方で東急東横店から始まって京都近鉄や吉祥寺伊勢丹、新宿小田急、京王、静岡伊勢丹など次々に出展を続けました。

同時期に銀座教会のギャラリーを借りたり、個人でイベントも様々に催しました。この売り方は評判がよくお客様のお人形やぬいぐるみなどに必要なパーツを買っていただけるようになりました。お人形本体については相変わらず個性的との批判も多かったのですが、反対に気に入ってくれる人は特別なお人形として扱ってくれました。

この後、様々なデパートの手作り店で販売しましたが、アトリエヒロコの店名よりもアトリエヒロコの抱き人形の方が認知されるようになりました。同時にアトリエヒロコの抱き人形とベストを販売商品にしているうちに、お客様からベストに合わせるスカートやブラウス、ひいてはワンピースやコートなどお客様がありそれに合わせてウエァの種類が増えて行きました。

1997/5 松屋銀座に出展

手作り展のお客様の一人が銀座松屋の手芸売り場の店員さんで、一年間アトリエヒロコの商品や販売方法を見てくれた結果「あなたの商品を松屋のバイヤーに紹介をしていいですか。」という有難い話をいただきましてその後松屋のバイヤーがあちこちに出展していたアトリエヒロコの売り場を見て松屋銀座、催事売り場に出展を認めてもらえました。きしくも、出展初日は私の50歳の誕生日でした。

松屋に出展出来たことで商品の格を上げることができ、好評を得て、新たなお客様と接することができました。そこで数多くのお客様が既製服ではなく誂えを希望してることを知りました。何年か松屋の出展を続けながらお客様の要望に沿った誂えの仕事をしようと決心して松屋での出展をお断りしました。

松屋のお客様はリピーターが多く今現在もお付き合いがあります。これまで誂えの仕事を継続できているのは松屋に出展できたおかげと感謝しています。

1998/2 有限会社 アトリエヒロコ設立

友人の勧めもありアトリエヒロコを個人から有限会社として設立し、新たな気持ちでスタートしました。

1998/12

長い間のデパートでの販売から離れて南青山のマンションで誂えと販売の仕事をすることになりました。銀座松屋のお客様は銀座と南青山が近いこともありマンションに注文に来てくだるようになりました。

南青山のマンションはとても古い建物で内部が木造だったので、オーナーの了解を得て様々な飾り付けをしました。アトリエヒロコの営業方法として季節ごとに部屋の飾り付けに力を注いでお客様を定期的にお招きしました。例えば「三月のお雛様飾り」というタイトルをつけ案内状を送りました。お客様は案内状が来たことで部屋の飾りを見るという名目で来てくれました。 実際天井飾りまでして驚く様な飾り付けだったので、お客様は今回はどんな風に驚かせてくれるかという気持ちでそれを楽しみに来てくれました。飾りを見ながら誂えをしてくれたり、商品を買ってくれたりすることもあり私も楽しく仕事ができました。

こちらから部屋を見に来てくださいというお誘いなので、お客としてではなくお茶を飲んで帰られるだけでよかったので、お客様は気楽にきてくれました。その時お茶を飲んで帰られたお客様は次回には何かしらの誂えや買い物をしてくれました。このように直接の営業活動をせずにアトリエヒロコを独自の方法で運営してきたと考えています。 お客様とのコミニケーションも深まり、現在までリピーターのお客様も多く、独自の経営方法だったと思っています。

2003/1 千葉県市川市に移転

高齢になった両親の希望でもあり、実家のある千葉県市川市に移転しました。

2004/10 リニューアルオープン

JR市川駅に近いマンションでアトリエヒロコをリニューアルオープンしました。南青山時代のお客様は東京から千葉県への移転にも関わらず、リピーターを続けてくれました。

初めてパソコンを導入してアトリエヒロコのホームページを作成しました。パソコンを操作をするのも初めてでしたが、ホームページの作成会社の担当者が新入社員でアトリエヒロコが初めての仕事だったこともあり非常に熱心に関わってくれて、短期間で検索順位を上位に上げることができました。ホームページの効果は大きく各地から注文をいただきました。 フランスからメールが入ったときは本当にインターネットが世界と繋がっていることを実感し驚きました。アトリエヒロコをオープンしてから広告媒体として、新聞や雑誌、バスなど様々な広告をしてきましたが、ホームページが集客効果があることを実感しました。

この時期特徴的だったのは、結婚式で新郎、新婦のお母様が本来着るべき留袖をドレスにリメイクする注文が続いたことです。これまでは新郎、新婦の母親は留袖を着るのが一般的と考えていたので、留袖のリメイクドレスが受け入れられる事に、リメイクの仕事をしていながら改めて驚きました。

2010/10 市川実家に移転

両親が亡くなって実家に住むことになり、市川のマンションから京成電鉄菅野駅すぐの戸建にアトリエヒロコを移転しました。

マンションではなく家の中に仕事場を作ったことに心配もありましたが、お客様にとっては安心してくれるのか家族と一緒に来店するもお客様も多くなりました。